サクサク読める日本の歴史

日本史好きの人や昔苦手だった人におすすめです。

225 室町戦国(第四次川中島の戦い 2・第五次川中島の戦い)

第四次川中島の戦いが始まって10日になります。そろそろ決着をつけたい信玄でした。

信玄は武田軍の軍師山本勘助(やまもとかんすけ)に策はないかと尋ねます。

勘助の提案では、兵をふたつに分け、片方が上杉軍の後ろから攻め、もう一方で本陣の前に上杉軍が出てきたところを討つというものです。(キツツキの戦法)

信玄は躊躇なく出陣を命じます。飯を炊く煙から武田の動きを察した信玄の軍も動き出しました。

音を立てずに闇の中に紛れ込み、両軍はそれぞれが前へ前へと進みます。

闇の中から大軍で姿を現したのは上杉の軍でした。武田軍は完全に裏をかかれてしまいました。

気づいた武田軍は時すでに遅し。あとはやり合うしかありません。そして四度目の戦が始まります。第四次川中島の戦いです。

上杉軍有利で、応戦する武田軍は出遅れてしまい、準備不足のために苦しい戦いを強いられます。

信玄の弟信繁(のぶしげ)武田軍軍師山本勘助(やまもとかんすけ)らが命を落としました。

そして人々をかき分けるかのように、馬に乗って走り、謙信は敵陣に一人で乗り込み信玄を直接討とうとしましたが失敗に終わります。

信玄は、謙信をただの利口者と思っていましたが、すさまじき武将と感じたのでした。

川中島の戦いといえばこの第四次川中島の戦いをさすほどすさまじい戦いでしたが、またしても決着はつきませんでした。

第五次川中島の戦い

武田軍は、謙信の留守中に越後国に侵入します。「留守をねらうとは卑怯な!」謙信はそう思いました。

そして再度の川中島での対決。上杉軍・武田軍は60日にらみあうことを続けましたが戦うことなく謙信は兵を引き上げ戦いは終了しました。

父の代からの願いだった信濃はそのほとんどを謙信が収め、次なる野望は。次の謙信の目標はなんと京だったのです。  

                   つづく

224 室町戦国(第四次川中島の戦い 1)

武田千曲川沿いに海津城(かいづじょう)を築いて信濃を支配しようとしており、謙信はここでたたいておかなければと思いました。

そして第四次川中島の戦いへ。謙信は自国越後から総勢一万三千の兵を率い川中島の南に位置する女山(さんじょざん)に陣取ります。

一方、武田軍は上杉軍より七千多い二万の兵で上杉軍と千曲川(ちくまがわ)を隔て塩崎城に入ります。

武田軍は軍師(大将のもとで作戦・計画を考える人)の指示のもと紙の旗をたくさん作って村中にたてました。夜はかがり火をたいて大軍が構えているように見せる作戦です。

武田軍の軍師の作戦どおり上杉軍はかがり火と旗に恐れを覚えました。

謙信は皆に言います。武田軍が越後国に大勢の兵をおくり、攻め込むなら、上杉軍は手薄になった甲斐国をせめるまでだと。

千曲川を挟み両軍のにらみ合いは6日に及びました。

これ以上にらみ合っても無駄だと思った信玄の軍はひとまず海津城へと場所をうつします。

223 室町戦国(第三次川中島の戦い)

▼上杉軍・武田軍ともに川中島から兵を引き上げるとの約束をしていましたが両軍とも約束を破り、信玄の軍では信濃を狙って北上していました。

そして1557年、第三次川中島の戦いへ。

信玄は謙信が雪のため、軍を進めることができないと予測し葛山城(かつらやまじょう)を攻略します。

その後も上杉領の城を攻めながら武田軍は、少しずつ少しずつ信濃に向かっていました。

武田軍が北信濃へ攻め入っていると知った謙信は激怒し、改めて打倒武田を掲げます。

春が来ると謙信は上杉領の城を取り返す!と反撃を開始します。

夏には上杉軍・武田軍は激突。両軍は上野原(長野県)で戦いましたが勝負はつきません。

また、この頃 謙信は相模の北条氏とも戦っており信玄との戦いに全勢力を尽くすことができず、武田軍は確実に信濃に勢力を伸ばしました。

☆  1561年謙信は上杉憲政(うえすぎのりまさ)から関東管領と上杉姓を譲られ上杉家の当主となり、名も正虎(まさとら)と改めます。

222 室町戦国(第二次川中島の戦い)

▼謙信との戦いに勢力を注ぎ込みたい武田軍。しかし信玄は思いました。「今  相模国の国の北条に攻められたなら面倒なことになると。」

そこで信玄が考えたことは、各国でそれぞれの娘を人質の代わりに嫁がせ姻戚関係を結ぶことで同盟を組むということです。

武田信玄甲斐国)の娘は北条氏康相模国)のもとへ、北条氏康の娘は今川義元駿河国)のもとへ、今川義元の娘は武田信玄甲斐国)のもとへと娘を嫁がせたのです。

斐の信玄、模の北条、駿河の今川からこの同盟は甲相駿三国同盟(こうそうすさんごくどうめい)といいます。

かたや謙信はこのような状況にあっても朝廷幕府に出向いてい挨拶を欠かしませんでした。

ここで、武田信玄旭山城栗田寛安(くりたかんあん)とが手を組んで兵を進めてきました。そこで上杉謙信武田信玄は二度目の戦となりました。

これが第二次川中島の戦いと言われるもので、旭山城に近い川中島で上杉軍と武田軍は犀川(さいがわ)を挟んで陣をしきました。

上杉  対(武田+栗田寛安)

対陣から200日もが立ちお互い、兵糧(陣中における軍隊の食糧)も間もなくつきるかと思ったその時、今川氏からの使者が来ます。

信玄は今川義元に仲裁を頼み「所領を旧領主に返す」という条件のもと、謙信は兵を引き上げることにしました。

221 室町戦国(第一次川中島の戦い)

▼1553年第一次川中島の戦い

始まりは、武田軍に攻められていた北信濃村上氏らが領土を奪われてしまったので助けて欲しいと上杉謙信のもとに駆け込んできたことでした。

謙信は武田が信濃を奪うのは時間の問題と、村上氏の助けに応じることにします。

謙信は五千の兵で八幡で戦い勝利します。これにより村上氏は城を取り戻すことができました。

しかし同年7月、武田軍は塩田城を攻め、村上氏は再び越後国へと逃げのびます。

塩田城を占拠した信玄はこの城を拠点に信濃国を攻めることにしました。

武田軍と上杉軍の間では城の争奪戦が行われており、その結果、決着がつかず両軍ともども兵を引くことにしました。

信玄は予想以上に謙信には力があることを思い知ります。そして、信玄に一つのことが思い浮かびます。

「今  相模国の国の北条に攻められたなら面倒なことになると。」

230 室町戦国(上杉憲正・小笠原長時・村上義清・武田信玄・上杉謙信・川中島の戦い)

▼1552年のとある日、関東管領上杉憲正(うえすぎのりまさ)が上杉謙信のもとを訪れます。聞くところによると相模国さがみのくに-神奈川)の北条氏に上野国(こうずけのくに-群馬)を攻めとられたので助けて欲しいとのことでした。

謙信は情に厚く何かあれば、謙信のもとを訪れる人も多く、また謙信も困った人がいれば積極的にうけいれていました。

謙信のもとに信濃国(しなののくに-長野)の大名小笠原長時(おがさわらながとき)と村上義清(むらかみよしきよ)が駆け込んだきます。

同盟国であるにも関わらず、武田晴信(たけだはるのぶ-武田信玄)が攻めてきて領地を奪われてしまったとのことでした。

小笠原長時村上義清が信玄に追いやられ、謙信に助けられ、そのうえ信玄のやり方に文句をつけているということが本人 武田信玄の耳に入ります。

これに激怒した信玄は謙信を徹底的に討つと宣言し、こうして武田信玄上杉謙信の長きに渡る戦の火ぶたがきられました。

戦いながら北へ北へと向かう信玄はついに謙信の領地まで迫っていました。

☆  両者の戦いは川中島を舞台に第一次から第五次まで繰り広げられます。川中島信濃国北部で千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)が合流する一体を指します。

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